ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とスコット・ライディ

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 初出場
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ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 1989年のMLBドラフト2巡目(全体の56番目)でオークランド・アスレチックスに指名され契約。1993年にメジャーデビューを果たすが、メジャー経験はこのシーズンだけで長らくマイナー生活が続いた。1996年に福岡ダイエーホークスに入団するが、実は開幕前には前年まで2年間在籍したケビン・ライマーの残留が決まっていた。しかし、「走攻守三拍子揃った野手」という触れ込みのライディをダイエー側はとり、ライマーは解雇された。ライディの背番号はライマーが着けていた47となった。
シーズンに入ると前年までライマーが守っていた右翼手で起用された。守備はライマーよりも無難にこなしており、走塁面でも外国人野手では珍しくシーズン二桁盗塁をマークして、走攻守の走と守は合格点を付けられる内容だった。しかし、肝心の攻の面では期待ほど長打が出ず、物足りなさがあった。
ライディは6月半ば頃から故障で欠場がちになるが、代わりに外野に入った大道典良が前年までの粗っぽい打撃とは別人のような巧打を見せたため(大道は「ライディが戻ってきたら長打力に劣る自分はまたレギュラーから外れるだろうから(ただし、ライディの長打力が際立っていたわけではない)、流し打ちに徹するしかない」と考えていたという)、後半戦は故障が治っていても二軍生活が続いた。結局、シーズン終了後に解雇となった。
長打力がやや劣るものの全体としてはそれなりの数字を残しており、当時27歳だったこともあり「もう一年様子を見てもよかったのでは」という声も一部に聞かれた。
なお、ライマーおよびライディが着けていた背番号47は、西武ライオンズ時代に47を着けていた工藤公康が翌1997年から再度着けた。