織田軍主力

こうして足利義昭を第15代将軍として擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国(この時、信長は義昭から管領斯波家家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる)。
永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せたといわれている[16]。
もっとも、浅井長政池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。