├─≠ョ─ヵラスとジダン

├─≠ョ─ヵラス エピソード
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 1990年代後半から2000年代前半にかけて「世界最高のサッカー選手」と称えられた名選手[1]で、クラブ・代表を通じて攻撃的ミッドフィールダーのポジションで活躍。高いテクニックとキープ力から宇宙人とも称され[2]、FIFA最優秀選手賞3度、バロンドールゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、ワールドカップ欧州選手権トヨタカップチャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて制覇。FIFA100選にも名を連ねている。
また、アルジェリア移民2世のカビル人で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困層が多く住む地域で育った[3][4]という自身の出自も手伝って、移民国家の象徴としてフランスではスポーツ選手の枠を超えた人気を誇っている[5][6]。2005年のビジャレアルCF戦におけるジダンを捉えたフランスのドキュメンタリー映画ジダン 神が愛した男』も制作され、第59回カンヌ国際映画祭で招待上映された。14歳で家族の元を離れ、1989年ASカンヌでプロデビュー[7]。3年目の1990年に定位置を獲得した。1992年に移籍したFCジロンダン・ボルドーで大きく才能を開花させ、1994年にはリーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれた。1996年にはインタートトカップを勝ち上がり出場したUEFAカップで決勝まで進出。決勝では敗れたものの、ユヴェントスの首脳陣をして「ミシェル・プラティニの後継者をみつけた」と言わしめた[7]。
1996年7月ユヴェントスへ移籍。移籍当初は低調だったものの、当時監督だったマルチェロ・リッピジダンを起用し続けた[8][9]。シーズン開幕後3カ月が経過するとジダンはチームに順応。このシーズン、ユヴェントスセリエAインターコンチネンタルカップ優勝を飾り、ジダンはキャリア初のメジャータイトルを獲得した。その後、ユヴェントスには5シーズン在籍し、デルピッポと称されたアレッサンドロ・デル・ピエロフィリッポ・インザーギの2トップを操るトップ下の位置でプレー。2度のリーグ優勝に貢献した。UEFAチャンピオンズリーグにも1996-97、1997-98シーズンと2年連続で決勝進出を果たした。しかし、ジダンが移籍する前の1995-96シーズンでユヴェントスUEFAチャンピオンズリーグを優勝しており、一部のファンから黒猫と呼ばれた。
2001年7月、当時史上最高額となる8000万ユーロの移籍金でレアル・マドリードに移籍[7]。当時のクラブ、代表双方でツートップを組んでいたラウル・ゴンサレスフェルナンド・モリエンテス、また超攻撃的左SBのロベルト・カルロスや自身と同じくバロンドール受賞経験者のルイス・フィーゴら豪華なタレントを擁し、銀河系軍団と称されたチームの攻撃陣の中心として活躍した[10]。特に、これらの選手と共に戦った2001-2002シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ勝戦バイエル・レバークーゼン戦での決勝点となったボレーシュートは、サッカー史上最も素晴らしいゴールの一つと評価されている[11]。1対1の同点で迎えた前半44分、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。この美しいゴールが決勝点となり、ジダンはキャリア初のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた[12]。2002-2003シーズンは自身と同じくバロンドール受賞経験者のロナウドが加入し、リーガ・エスパニョーラUEFAスーパーカップインターコンチネンタルカップ制覇の3冠を達成。しかし、その後はスター偏重によってクラブは攻守のバランスが崩れて低迷し、2003-2004シーズンのスーペルコパ・デ・エスパーニャ制覇が同クラブでの最後のタイトルとなった。ジダンの最終シーズン、セビージャFCを相手にキャリア初のハットトリックを達成した[13]。2005-2006シーズンの途中に、2006 FIFAワールドカップでの引退を発表。