├─≠ョ─ヵラスと新井良太

├─≠ョ─ヵラス ムードメーカー
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス プロ入り後は兄を上回る素質があると評価され、ルーキーイヤーの2006年は、ファームでもルーキーながらほぼ毎試合4番で出場していた。しかし打率.254、3本塁打と、パワーはあるものの粗い打撃と拙守のためシーズン前半は2軍暮らしを送る。7月17日にプロ初の一軍昇格。同日の横浜戦で代打として待機するが、降雨コールドとなり初打席はお預けとなってしまった。
その後一軍再昇格し、同年9月10日広島戦でプロ初ヒットを記録。その後4度の代打機会にてすべてヒットを放ち、右の代打として存在をアピール。10月12日対阪神戦では6番・一塁手でプロ初スタメンを飾った。
2007年は、二軍で打率.286、6本塁打(チームトップ)と打撃が向上し、一軍でも打率.280を記録、プロ初打点も上げた。
10月7日横浜ベイスターズ戦で3番・左翼手でスタメン出場するも死球を受け、打席で悶絶。途中交代となった。これに関しては立浪和義から「痛がるなら一塁へ行ってからじゃないのか」と叱咤された(せっかく与えてもらったチャンスを不意にしてしまった事への戒めである)。この言葉に新井は「今度は顔に当たっても塁へでます」と教訓を得たようであった。事実、スタメン出場したアジアシリーズ第1戦では試合中の一塁守備時に手の指を負傷(後に骨折と判明)していたがそれを痛がるそぶりもなく引き続きプレーした(第2戦以降は欠場)。このシーズンから私設応援団による選手別応援歌が作られたが、新井のみ1番・2番の構成になっている。
2008年、春季キャンプは一軍スタートだったものの、中盤に二軍に降格。そのまま二軍で開幕を迎えたが、ファームでは好成績をおさめ、5月14日に一軍に合流。5月15日に負傷した森野将彦に代わって一軍に昇格した。その後わずか3日で再び二軍に降格したが、二軍で3割の活躍をみせて、6月7日に二度目の一軍昇格となった。また、このシーズンは二軍で規定打席に4打席達しないながらも、認定ルールにより、打率.332でチームとしては1970年の坪井新三郎以来となる例外規定での2人目の首位打者出塁率.418で最高出塁率のタイトルを獲得した。
オフにはドミニカ・ウィンターリーグに派遣され、Leones del Escogido(レオネス・デル・エスコヒード)に所属した。しかし、結局選手登録はされず、アリゾナダイヤモンドバックスのアカデミーでの練習試合に出場して通算8打数3安打4四死球と、選手登録されて出場した藤井淳志前田章宏に比べて低いものであった。しかし、派遣されている間にタイロン・ウッズが退団、さらに、翌年の一塁手最有力候補であった中村紀洋もFAで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍し、定位置である一塁が空いたため、開幕スタメンのチャンスができた。
2009年、春季キャンプは一軍スタートでそのまま完走。3月1日の中日対日本ハムのオープン戦で6回表無死、日本ハムの3番手江尻慎太郎から中越えに1軍初本塁打を放った。その後は不調となり二軍に降格されたが、初の開幕一軍入りを果たす。しかし代打で結果が出せず、4月20日に降格した。二軍では4番・一塁のレギュラーとして打率.299、9本塁打、55打点(リーグ3位)。出塁率.426、最多四死球(60個)で二年連続となるウェスタン・リーグ最高出塁率のタイトルを獲得した。
2010年、6月9日の楽天戦で一軍での初ホームランを放つも一軍に定着することができずに終わり、オフに背番号32への変更が決定された。
しかし、12月24日、水田圭介との交換トレードで、阪神タイガースに移籍[1]。兄・貴浩、慕っている金本知憲と同じチームでプレイすることになった。