├─≠ョ─ヵラスと杉浦忠

├─≠ョ─ヵラス マウンドマナー
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 挙母高校(現在の豊田西高校)から立教大学へ入学。大学では同期の長嶋茂雄読売ジャイアンツ〔以下、巨人〕)、本屋敷錦吾(阪急ブレーブス)と三人で「立教三羽ガラス」と呼ばれた。
もともとオーバースロー投手であったが、大学2年の時に肩を故障してサイドスローアンダースローと呼ばれることなどもある)に転向した。このため、その投球フォームは横から投げつつも肘から先の使い方が上から投げていた頃そのままであり、これがボールに独特の回転と切れを与えた。加えて天性の関節の柔らかさ(特に股関節)がサイドスロー投法にはまり、流れるようなフォームから威力抜群の速球を生む要因となった。「手首を立てたアンダースロー」といわれたフォーム(ベンチからでも手首をスナップさせる「ピシッ」という音が聞こえたという)は当時シーズン30勝を挙げた巨人の大友工を手本にしたといわれている。東京六大学野球通算36勝(立教OBとして最多)の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。早大相手にノーヒットノーランも達成した。この間先輩のシゴキに耐えかねて長嶋と共に合宿所を抜け出し、杉浦の地元・愛知の中日ドラゴンズの球団事務所を訪問、売込みを図ったものの関係者に諭されて帰還するという一幕もあった。
1958年、南海ホークスに入団。入団に際しては、南海の主力で大学の先輩でもある大沢啓二から少なからぬ額の栄養費を長嶋と共に受け取っていたが、南海の鶴岡一人監督に「僕がそんな男に見えますか?」と啖呵を切ったというエピソードと共に、翻意して巨人入りした長嶋に対し義理堅く南海入りした杉浦との対比が未だに語り草になっている(長嶋の翻意は家族が懐柔されたためともいわれる。また長嶋はプロ入り後立教時代に受け取った栄養費と同額の金を返還している)。
入団後は新人ながら開幕投手を務め、東映を相手に勝利投手となる。1年目は27勝を挙げて新人王を獲得。2年目の1959年は38勝してわずか4敗(勝率9割5厘)という成績で南海のリーグ優勝に貢献し、シーズンMVP(投手5冠)。迎えた日本シリーズでは巨人相手に第1戦から第4戦まで血豆をおして4連投して4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シリーズMVPに輝いた。このとき記者に囲まれた杉浦は「1人になったら、嬉しさがこみ上げてくるでしょう」と言ったつもりだったが「一人になって泣きたい」という言葉が一人歩きしたと、自叙伝「僕の愛した野球」で明かしている
その後もエースとして活躍したが、連投による右腕の血行障害の影響や、野村克也の反対を押し切ってシンカーを覚えたことで持ち味を殺してしまい、徐々に成績は下降していく(スライダーを勧めようとしていた野村は後年、自著の中でもしシンカーを覚えていなかったらもっと勝てていたと、説得に折れた事への後悔の念を綴っている)。長いイニングが投げられなくなった選手生活の後半は主に抑えの切り札として活躍した。
1970年シーズン限りで現役引退。1971年3月大阪球場での巨人とのオープン戦が引退試合として行われ、親友・長嶋茂雄の打席のところで登板。長嶋は記者の質問に「思い切り振って三振するよ」と答えたが、結果は引退試合の「お約束」である三振ではなく、痛烈なセンター前ヒットであった。これが長嶋の餞であり、友情の象徴とも言われる。杉浦はこのことを振り返り、「彼(長嶋)が、マジで向かってきてくれたことに、自分は凄く嬉しかったし、誇りを感じる。トンボが止まるようなヘナヘナボールだったら、彼は空振りして、三振したんじゃないかな」と語っている。
現役引退後は、毎日放送の解説者を経て、立教の大先輩西本幸雄に請われて近鉄バファローズの投手コーチに就任(1974年〜1977年)。その後再び毎日放送の解説者を務めた。
1985年オフに古巣南海の監督に就任、(巨人を自由契約となり、西本が仲介して移籍してきた)加藤英司の現役生活の最後を飾る奮闘も有り、1987年は9月初めまで南海久々の優勝争いを演じた。1988年にチームはダイエーに売却され福岡に移転。福岡ダイエーホークスの初代監督となったが1989年限りで退任。その後は1990年にフロント入りし、1994年に退職。
ホークス退団後は、九州朝日放送KBC)の解説者を務め、「仏の杉浦、鬼の河村」で人気を博した。柔らかい、穏やかな語り口から人気を得たが、柔らかいながらも時には叱咤激励のコメントを出すこともあった。当時のキャッチコピーはマイクの前のジェントルマン。また後年は球界の紳士とも紹介されていた。1999年に南海の後身であるダイエーが優勝を決めた試合でのラジオ放送では「一人で中洲で酒を飲みたい」と中継内でコメントした。
また2001年よりプロ野球マスターズリーグ大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。3試合のみ代理監督を務めた。2001年11月11日、大阪ロマンズの遠征先で宿泊していた札幌市内のホテルで急性心筋梗塞により急逝した。享年66。浄土真宗本願寺派堺別院で行われた告別式では、山門前に集まったファンが掲げる南海ホークス球団旗と球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られた。
杉浦の功績を称え、マスターズリーグの最優秀投手に与えられる「杉浦賞」に名を冠している。